眼と耳で読む師匠シリーズ

【眼と耳で読む】四つの顔【師匠シリーズ】

 

※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
 
 


 


 
 

[h2vr]
「四つの顔」

 
大学一回生の冬だった。
そのころ俺は、大学に入ってから始めたインターネットにはまっていて、特に地元のオカルト系フォーラムに入り浸っていた。
かなり活発に書き込みがあり、オフ会も頻繁に行われていたのだが、その多くは、居酒屋で噂話や怪談話の類を交換して楽しむという程度で、一応『黒魔術を語ろう』というテーマはあったものの、本格的にその趣旨を実行しているのは、ごく一部の主要メンバーだけという有様だった。
俺もまた、黒魔術などという得体の知れないものを勉強しようという気はさらさらなく、その独特のオカルティックなノリを緩く楽しみたいという、ただそれだけの動機だった。

そんなある日、いつものように居酒屋でオフ会をしたあと、Coloさんというフォーラムの中心メンバーの家に、有志だけが集った二次会が開かれた。
その前の居酒屋ステージで、はじめてオフに参加したという軽薄そうな男が、京介さんというハンドルネームの女性にしつこく言い寄り、ついに彼女がキレて一人で帰ってしまう、という騒動があったせいで白けたムードが漂い、常連だけで飲みなおそう、ということになったのだ。

 
マンションにあるColoさんの部屋で、買い込んできたお酒をダラダラと飲んでいると、自然とオカルト話になる。
俺を含め全部で五人。
そういう話が好きな面子が揃っているから当然なのだが、考えると、これだけ何度も集まりながら、まだ話すネタがあるというのが結構凄い。
特に沢田さんという女性と山下さんという男性は、怪談話の宝庫だった。
沢田さんは看護婦をしていて、実体験はあまりないものの、病院にまつわる怖い話をかなり蒐集しており、その頼りなげな語り口は、恐怖心を必要以上に煽ったものだった。
山下さんは三十年配の最年長組で、霊感が強いのか体験談がやたらと多く、他のメンバーからは、『半分以上眉ツバ』などとからかわれていたものの、時に異様なリアリティで迫ることもあり、一目置かれた存在だった。
その夜も、沢田さんの病院話と、みかっちさんという女性の子どものころの話、それから山下さんの話とかが、順番に語られていった。
その中でも一番印象に残ったのが、山下さんがボソボソと語った、
「疲れてくると、人間の顔が四パターンしか見えなくなる」という話だった。

 
俺はかなり眠くなっていて、みかっちさんに「寝るな」と小突かれていたのだが、カシュン、という缶ビールのプルトップが開く音に反応して、頭が多少クリアになった。
「ぼ、僕はね。疲れると、四つのパターンしか顔が見えなくなるんだ」
山下さんは缶ビールから口を離し、おずおずとそう切り出した。
「なにそれ。四パターン?それ以外の顔は?」
十歳以上年下のはずだが、みかっちさんは少しでも顔見知りになった人にはたいていタメ口だ。
「だから、人間全部が、四パターンのどれかの顔になるんだ」
「はあ?なわけないじゃん」
「ま、まあ、僕にそう見えるってだけで……」
せめられてるような表情をして口をつぐみかけたので、俺はみかっちさんを制して続きを促す。
「と言っても、よっぽど疲れたときだけなんだけど。
 なんかこう、疲れて外歩いてると、道行く人の顔がだんだん同じように見えてきて、く、区別がつかなくなるんだ」
「それ、疲れてるんだって」と、みかっちさんが口を出し、我ながら面白いことを言ったとでも思ったのか、やたら一人でウケて笑いはじめた。
「うるさいな、もういいよ」
山下さんは怒り出し、目つきが鋭くなった。
彼にはエキセントリックな所があり、俺は少し扱いづらい人だという認識をしていた。
沢田さんがみかっちさんの口を塞ぎ、なんとか話の続きをしてもらう流れに持っていく。
そんな途中で止められると、気になってしかたがない。
「か、完全に区別がつかなくなるわけじゃなくて、
 この人とこの人は同じに見えても、その横のこの人は別の顔って感じ。
 それがぜ、全部で四パターン。
 同じパターンの中での区別はつかないから、その中に知り合いがいても分からない」
不思議な話だ。みかっちさんではないが、それはたしかによっぽど疲れてるんだろう。
「それって、どんな顔なんです?」
沢田さんが、興味津々という様子で身を乗り出す。
「それが、疲れてないときには、は、はっきり頭に浮かばないんだ。
 なんていうか、その、……あああ、せ、説明しにくいな」

 
「絵とかにも描けない?」
Coloさんが久しぶりに口を開いた。
「描けない」
「その四パターンって、醤油顔とかソース顔とかって分け方と関係ありますか。
 あと、なんだっけ。タヌキ顔、キツネ顔ってのもあったな」
俺の問い掛けに、山下さんは首を横に振る。
「か、関係ないみたい。もとの顔は、関係ないみたい」
元の顔が関係ない?じゃあどうやって四パターンに分かれてるんだ?
「よっつって、血液型かな」
「あ、かも。A、B、O、ABの四パターン」
あ、それかと一瞬思ったが、考えてみると、道ですれちがっただけ人の血液型なんて分かりっこないじゃないか。
案の定、山下さんも頭を振る。
「じゃあ、そうね。男と女で二パターンでしょ。あとは、ぽっちゃりと痩せ気味あたりで分けてるんじゃない?
 もう疲れてくると、脳味噌がめんどくさくなってきて、個人の識別がテキトーになるのよ」
みかっちさんが一人で納得している。
すると、山下さんが驚くようなことを言った。
「お、男とか女とも関係ないと思う。だ、男女の区別もつかない」
「はあ?」と、みかっちさんが変な声を出す。
「男と女の区別がつかないって、それどんな顔よ」
「だ、だから、説明がしにくいんだけど、とにかくそういうのじゃない四パターンなんだ。
 あ、で、でも、正確に言えば、性別は服装とか髪型でだいたい分かるよ」
男女の区別もつかない顔って、どんな顔だろう。
想像してみるが、ホラー映画に出てきそうな、のっぺりした仮面が頭に浮かんで少し気持ち悪くなる。
「でももっと疲れてきたら、髪型とか輪郭とか体型とか、さ、最悪は服装まで同じように見えてきて、完全に誰が誰だか分かんなくなる」
ゾッとした。
そんな世界に一人で取り残されたらと思うと、気持ちの悪い寒気が背中を走った。
「でも、それでも、よ、四パターンなんだ」

 
缶ビールが空になっていることに気づいて、山下さんは舌打ちをする。
「わたしはどれです?誰と一緒?」
沢田さんが自分を指差す。
すると山下さんはColoさんと俺を指差して、それから、この場にいないオカルトフォーラムのメンバーの名前を何人か挙げた。
「ちょっと、なんでわたしだけ仲間はずれよ」
みかっちさんが不服そうな顔をして身を乗り出す。だいぶ酔っているようだ。
「は、半分以上、沢田さんのグループなんだ」
どうやら、四つのパターンにも勢力の違いがあるらしい。
話を分かりやすくするために、とりあえず俺たちは、
その四パターンを頻度が多いという順に、A、B、C、Dと名づけた。
山下さんの言うことには、半分以上がA、その半分がB、さらにその半分がC、Dはかなり少ないらしい。
「わたしはどれよ」
みかっちさんに詰め寄られ、山下さんは答えに窮した。
「い、今はまだ普通に見えてるし、そんなに疲れてるときに、あんまり知り合いに会わないから……」
そう言って思い出そうとしていたが、しばらく経ってから、「たしかC」という返事をようやく搾り出した。
「なによそれ」と言いながら、一番少ないというDじゃなかったことに、心なしかホッとしているようだ。

その後は『どうして人間の顔が四パターンに見えてしまうのか』という謎を解き明かす、というより完全に興味本位で、テレビに出てくる有名人の顔を次々に挙げては、どのグループに属するかを無理やりに聞きだし、それに一喜一憂して楽しんでいた。
「ちょっと、わたしのCの組、ブスばっかりじゃない。どうなってんの」
「たまたまでしょう。男前の俳優もいたじゃないですか」
「女はブスだらけじゃない」
「女優と女子アナつかまえてブスブスって、あんまりでしょ。どういう基準なの」
「そういえば、Bは美人揃ってる気がしますね」
「Aはなんかごちゃまぜって感じ。個性がないのよ個性が」

そんなことを言いあっては笑い飛ばしていたのだが、だんだんみんな気づき始めた。
俺が空気を察してそれを言い出そうとすると、それより先に沢田さんが口を開く。
「……Dは?」
まだ誰も、Dのグループに属する人が出てこなかった。
結構な数の有名人や知り合いを、かたっぱしから挙げていったというのに。
それを聞いた山下さんは一瞬、なにかに怯えるような表情を浮かべて言い淀んだ。
みんなにじっと見つめられ、やがておずおずと口に出す。
「し、知ってる人には、いない」
場が静かになる。気持ちの悪い沈黙だ。
「それ、どんだけ少ないのよ。Dの人って、よっぽどハブられてんのね」
みかっちさんが軽い口調で言ったが、変な余韻を残してその語尾が宙に消えた。
「じゃあ、Dの人ってどんなとこで見るんです」
恐る恐る俺がそう訊くと、山下さんは強張った顔をして、眼鏡の奥の視線を落ち着かなげに上下させた。
「み、み、道で、とか」
どうしてそんな言い方になるのだろう。はっきり言えばいいのに。
そうじゃないと、なんだか……怖くなってくる。
「あと…………」
そう言って迷うような仕草を見せた。みんなそれを変に緊張した面持ちで見つめる。
そばにあった空の缶ビールを半ば無意識に持ち上げかけて、一瞬その軽さに驚いたような顔をした後、山下さんはゆっくりと口を開いた。
「部屋の中、とか」
ゾクリとする。
なんだ、部屋の中って。
往来ですれ違う不特定多数の人々の中に混ざって、ごく少数だがDに属する顔をした人がいる、というならイメージは湧く。
なのに。
部屋の中?
意味が分からない。状況設定が見えてこない。

 
みんな山下さんの言動から目が離せなくなっていた。
「ほんとうに疲れてる時だけど、こ、こないだお風呂に入ろうとして、洗面所のドアを開けたら、
 まだお湯張ってない湯船に、立ってるんだ」
え?どういうこと。どういうこと。
沢田さんがそんな言葉を口の中で呟く。
「だ、誰だか分からない。区別のつかない顔。何度か見たことがある、一番少ない顔」
それが、立ってて。と、山下さんは半笑いのような変な顔をして続ける。
「そのままドアを閉めたら、ず、ずっと静かなままで、しばらくして開けたら誰もいなかった。
 ……それから、夜中めちゃくちゃ疲れて家に帰ってきた時、
 げ、玄関のドアを閉めて鍵掛けて、靴脱いでから部屋の中に入ろうとしたら、
 なんとなく振り向きたくなって、ふ、振り向いたんだけど、
 玄関のドアが半分開いてて、その、Dの顔が覗いてた。
 ……近づこうとしたらすぐに閉まって、取っ手のとこ見たら、鍵掛かったままだった」
みんな口が利けなかった。
「一人暮らし、でしたよね」
Coloさんが確かめるように言う。
怪談だ。いつのまにか。
変化球から入った分、心構えができていなかった。ドキドキする。
「それ、生きてる人間なんですか?」
沢田さんが怯えながらも問い掛ける。
「さあ」
この世のものではないという印象は持つけれど、生きている人間だとすると、そっちの方が怖い気がする。
姿がはっきり見えていながらそれが誰だか分からない。そしてありえない場所に現れる――
聞いている方も無性に気持ち悪いのだから、
それを見ながら正体を認識できない本人の方が、よほど気味が悪い思いをしていることだろう。

山下さんは急に明るい声を出して、「次、つぎ。次の話に行こう」と囃し立てた。
あまり深く語りたくないようだった。
そうしてまた、いつものありがちな怪談話のループに戻って行ったが、どこか皆、気が乗らない様子だったのは、すっきりしない四パターンの顔の話が、妙に気になっていたからかも知れない。
俺も疲労時の山下さんの頭の中で、Dという共通の顔にまとめられるなんだか分からない存在のことが、心のどこかにずっとこびりついていた。

それからみんな酒が進みだんだんと無口になってきて、俺は気がつくとみかっちさんに揺さぶられていた。
寝てしまったらしい。
時計は十二時を回っていたというのに、みかっちさんとColoさんは「鏡占いに行こう」と言って俺を揺する。
「とりあえず顔を洗わせて下さい」と立ち上がった時に部屋を見回したが、山下さんと沢田さんはいなかった。
「疲れたからって、帰った」
みかっちさんはバカにしたような口調で、酒臭い鼻息を部屋にまいた。

 
その日以降、オフに山下さんが現れることはなかった。
ネット上の掲示板でも、書き込みがほとんど見られなくなっていた。

ある夜、ふと気になって、山下さんが最後に書き込みをしたのはいつごろだろうと調べてみた。
それは五日ほど前だった。
タイムスタンプから逆算すると、Coloさんの部屋であの話を聞いた時から二週間あまり経っている。
内容を見たとき、スクロールするマウスが止まった。
え?
嫌な感じが背中を走った。
こんな書き込みがあっただろうか。覚えていない。
『Dが増えている』
たったそれだけの一行レス。前後の他の仲間の会話と噛み合っていない。
紛れ込んでいる、という表現がしっくりきた。

それより古いレスを見てみたが、
そこから四日前に、仲間の会話へ当たり障りのない合いの手を入れているだけだった。
さらに遡ると、くだんのオフ会以前まで行ってしまう。
「Dが増えている」
俺は黒を背景色にした掲示板を見ながら呟いた。
椅子が小さく軋む。
Dとはもちろん、あの山下さんが見るという四パターンの顔の一つだろう。
それも誰もいないはずの風呂場に立っていたり、鍵の掛っているはずのドアから覗いていたりといった、ありえない現れ方をする存在。
それが増えるとは、いったいどういうことなのか。
Dは出現頻度としては少なかったはずだ。次に少ないというCと比較しても、かなり少ないような印象だった。
それが増えるということは、AやB、もしくはCに見えていた人間が、いつのまにかDの顔に見えるようになったということだろうか。
俺は薄気味悪くなって首を回し、卓上鏡を横目に見た。
いつもの自分の顔が映っている。
これが山下さんには他の人間と区別のつかない、ある種の仮面的な顔に見えるというのか。
俺の顔はAのはずだった。
今もAだろうか。
自分の顔に変った所がないか、鏡に近づいてしげしげと眺める。心なしか目の周りがむくんで見えた。
伸びをして、瞼を手の平の腹で押す。
山下さんに見えている顔とは、どんな顔だろう?
誰でもあって誰でもない顔を想像してみたが、どうしたって知っている誰かに似ている気がした。

さらにその二日後、夕飯を食べてぼうっとしている時にPHSが鳴った。
見覚えのない番号だったので、「はい」とだけ言って出ると、『良かった。いた』という声。沢田さんだ。
たまのオフ会以外ではほとんど接点がない。電話を掛けてくるなんて、初めてではないだろうか。

 
『掲示板見てる?』
「いえ」
そう答えながらブラウザを操作し、オカルトフォーラムのページを表示させる。
『二時間くらい前』
そう言われて最新のレスを確認すると、山下さんのハンドルネームがそこにあった。

Dが増えている

以前見たレスと同じ内容。
けれど始めに見たものよりも得体の知れない気持ち悪さがあった。
そのレスの少し前にも山下さんの書き込みがあった。

怖い

そのたった二言だけ残して、山下さんは去っている。なにかが起こっているような予感がして鳥肌が立った。
『家に電話してるんだけど、出ないの。携帯も』
「落ち着いてください。大丈夫ですよ」
沢田さんの声が切羽詰まったような響きだったので、なるべくゆっくり話し掛ける。
『怖い、っていう書き込みに気づいて、すぐに電話したのよ。
 でも出てくれなくて、何度か掛け直してたら、『Dが増えている』って書き込みがあった』
電話を鳴らしている間に書き込みが?
それが事実ならおかしい。
家にいながら電話を無視していることになる。それとも、別の場所でパソコンを使っているのだろうか。
『家に行ってみたいんだけど、一緒に来てくれない?』
「今からですか」
『そう。ちょっと怖いし』
どうして俺なんだろうと思ったが、考えると確かにフォーラムの常連には男性が少なく、
山下さんが当事者となると、あとは俺くらいしかいないのだった。
「京介さんは」
女性ながら俺より頼りになりそうな人の名前を挙げてみたが、『バイト中みたい』との返答があった。
やっぱり行かないといけないのか。

 
できたら家でごろごろしていたかったが、心配する沢田さんの気持ちも分かる。なんだか変だからだ。
仕方なく俺は同行に了承して電話を切った。
山下さんの家は知らなかったので、沢田さんの指定するコンビニへ向かう。
自転車をこぎながら、嫌な胸騒ぎがするのを必死でごまかそうとしていたが、頭の中には『Dが増えている』という言葉ばかりがぐるぐるとリピートされ、その度になけなしの勇気を振り絞らなくてはならなかった。

コンビニの車止めの上に立って背伸びしていた沢田さんを見つけて、声を掛ける。
「ちょっと先なんだけど」
そう言う沢田さんについて、自転車を押しながら歩いた。
人通りの少ない夜の遊歩道を抜け、物寂しく点滅する街灯の下を歩き、やがて二階建てのアパートが見えてくる。
「一階の右端なの」
緊張した声でそう言うと、沢田さんは携帯を取り出し、リダイヤルボタンを押した。
しばらく耳を当てていたが、やがて諦めて腕を下ろす。
「やっぱり出ない」
顔を見合わせていたが、とりあえず部屋を訪ねてみないことには始まらない。
道端に自転車をとめ、右端のドアの前に立った。
横にある台所らしき窓は真っ暗だ。ドアの真ん中に口を開けている郵便受けからは、なにもはみ出していない。
ずっと留守をしているのなら、新聞やチラシが詰め込まれていても良さそうなものだ。
チャイムを鳴らしてみる。耳を澄ましたが、中でちゃんと鳴っているのかよく分からない。
しばらく待ってからドアを叩く。
「山下さん」
「山下さぁん」
さらに待っても反応は無かった。
左の方から光が近づき、乱暴な音とともに背後を通り過ぎる。
俺がその車に気を取られてよそ見をしていると、「開いてる」という声がした。
振り返ると、沢田さんが口を押さえてドアノブを握っている。
「山下さん」

もう一度呼びかけながら、二人でドアの隙間から中を覗き込む。暗くてよく見えない。
「いるような感じがしませんね」
俺は声を潜めて、玄関にソロソロと足を踏み入れる。そして壁際に手を這わせ、電気のスイッチを探り当てた。
眩しさに一瞬顔をしかめながら靴を脱ぐ。
「鍵の掛け忘れですかね」
山下さんの部屋は、一人暮らしにしては割と広い。そしてとても綺麗に整理整頓されている。
余計な物が全く無く、有る物はすべてきっちりと相応しい向きに並べられている。
台所も料理道具が揃っているのに、まるでほとんど使われていないかのようにピカピカだった。
神経質な彼の性格そのままの部屋だ。
テレビの前にあるベッドを見ると、掛け布団がほとんど起伏もなく伸ばされている。
生活臭がない。一体いつごろまで彼がこの部屋にいたのかも分からなかった。
「でも二時間半くらい前までは、いたはずなんですよね」
机の上のパソコンに目を遣った。
近づいて本体のパワーボタンに手を伸ばしかけると、「ちょっと、悪いよ」とたしなめられる。
それもそうだ。様子が変だからと訪ねてきたものの、勝手に留守中の部屋の中をいじくって良いはずはない。
失踪したわけでもないのに。
そう思った時、ふと頭にその単語が引っ掛かった。失踪?どうしてそんなことを思ったのだろう。
パソコンの前に立ったまま床に目を落として考える。
その思考が、一筋の悲鳴にかき消された。
ハッとして振り向くと、洗面所があるらしきドアの向こうから、続けざまに短い声が上がる。
「どうしたんです沢田さん」
そちらに足を踏み出しかけると、いつかの山下さんの話が脳裏を過ぎった。
『まだお湯張ってない湯船に、立ってるんだ』
Dが……
ぞわぞわと背筋が冷たくなる。
誰だか分からない人物が無表情でドアの向こうに立っているのを、勝手に脳がイメージしてしまう。

躊躇しかけてなんとかそれを振り払うと、半分閉まったドアを開け放つ。
沢田さんが小刻みに身体を震わせながら、立っている背中が目に入る。その肩越しに洗面所の鏡があった。
その真ん中が割られていて、放射状に亀裂が伸びている。
怯える沢田さんの顔が、まるで切り裂かれたように不鮮明に映っていた。
俺も固まりかけたが、嫌な予感がしてすぐさま風呂場の戸に手を掛ける。
思い切って開け放つと、ひんやりした空気が顔に当たった。
中には誰もいなかった。湯船の蓋は取られ、お湯も張られていない。
「はあ」という声がして、それが自分の出した安堵のため息だと気付くまで少し時間が掛かった。
「どうして、これ、こんな」
割れた鏡の前で棒立ちになっている沢田さんに、「大丈夫です」と無責任な声を掛ける。
他に異常はないかと、部屋のすべての場所を確認して回ったが、結局なにも見つけられなかった。
他人の部屋で勝手に家捜しをすることに対する、引け目をあまり感じなかったのは、
あまりに生活感のない空間だったからだろうか。

しばらくして落ち着いた沢田さんに「もう帰りましょう」と言うと、軽く笑って頷いた。
山下さんの携帯は相変わらず通じないし、部屋に帰ってくる様子もなかったが、
なにかの事件に巻き込まれたと判断するには材料が乏しすぎる。
割れた鏡は気になったけれど、物取りや暴漢に襲われたにしては部屋の中に全く荒らされた形跡がない。
この程度で警察に連絡しては、山下さんにとっても迷惑だろうという判断をせざるを得なかった。
ただあれだけ神経質に部屋を整理整頓している人が、どうして割れた鏡をそのままにしているのか、それだけはよく分からない。
『Dが増えている』という書き込みをしてから、山下さんは鍵も掛けずに出て行った。
まるで何かから逃げるように。鏡はその時割れたのか。割ったのは誰?
あれこれ考えていると、また薄気味悪くなってくる。
沢田さんにつつかれて、我に返ると玄関に向かった。

部屋を出るとき上がり口に、見覚えのある靴が置いてあるのに気がついた。山下さんがいつも履いている靴だった。
裸足で外へ?まさかな。
他の靴くらい持っているだろう。
変な考えを振り払い外へ出ると、すぐにドアの鍵を掛けられないことに思い至る。
開いていたからといって、そのままにして行くのはまずい気がして、
どうしようか悩んでいると、沢田さんがドアの側に置かれていた、小さな鉢植えの下に手を入れる。
引っ張り出したのは鍵だった。
「内緒」
人差し指を唇に当てながら、彼女はドアに鍵を掛け、また元の場所に戻した。
そう言えば、二人は付き合っているという噂があったことを思い出す。
今さらだが、沢田さんがやけに山下さんを心配している理由が分かった。

途中まで沢田さんを送ってから、自分の家に帰る間、自転車をこぎながらふと思ったことがある。
山下さんの体験の中で、帰宅直後に鍵をしたはずのドアが開いていて、誰かの顔が覗いていたという部分。
その後近づくとドアが閉まって、ノブを見ると鍵が掛かったままだったという怪談じみた話だったが、実際ああしてドアの側に鍵を隠してあったのなら、それを知る人間には不可能なことではない。
一体山下さんの言うDとは、彼の脳が生み出す幻なのか。
それとも彼の脳が被せる、匿名の仮面を着けた生身の誰かなのか……

そんなことを考えながら家に帰り着き、軽くかいた汗を流すためにシャワーを浴びた。
シャンプーをしている時、いつも以上に背中の方が気になった。
目を閉じている間、後ろに誰かがいたら嫌だというあの感じ。
シャンプーが沁みるのを我慢して、チラチラと薄目を開けながら早めに洗髪を切り上げる。
風呂場から出て、しばらく布団の上でまったりしていたが、思いついてパソコンの電源を入れる。
ブラウザを立ち上げ、いつもの掲示板に入り込んだ途端、最新の書き込みに目を奪われた。
『またDがきた。出て行ったあとに取っ手を見たらまた鍵が掛かっていた』

山下さんだ。なんなんだこれは。
一瞬ゾクッとしたが、すぐにその書き込みの意味を理解する。
書き込まれたのは、『Dが増えている』という山下さんの書き込みを見てから、沢田さんと二人で彼の部屋へ行った後だ。
鍵を掛けて出ていったDとは、俺たちのことに違いない。
なんの悪ふざけなんだこれは。
留守に見せかけてどこかに隠れていたのか。あれほど探し回ったのに。
気分が悪い。山下さんが何故そんなことをするのか、理由が思い浮かばなかった。
怪談話を真に受けて乗ってきた俺たちに、イタズラを仕掛けたということなのか。

『ワサダさんが連絡取りたがってましたよ』
ワサダとは沢田さんのハンドルネームだ。
そう書き込んでしばらく待ってみたが反応はなかった。もう落ちていたのだろう。
バカらしくなってパソコンを切り布団に寝転がった。
まったく、心配して損した。
けれど眠りにつく少し前、さっきの書き込みのタイムスタンプがふと頭に浮かんだ。
あれ?
その時間って、俺たちがまだ部屋にいた時間じゃないか?
まさか。そんなはずはない。
たぶん俺たちが部屋を出てすぐに書き込んだんだろう。隠れ場所から這い出てきて。ほくそ笑みながら。
そんなことを思いながら瞼を閉じた。

 
翌日、バイトが終わって、これから家に帰り夕飯を食べようという時に、沢田さんから電話があった。
昨日の山下さんの書き込みを見て、フォーラムの管理人をしているメンバーに連絡をとったのだそうだ。
やはり沢田さんも、書き込み時間がおかしいことに気がついたらしい。
山下さんが『またDがきた』と書き込んだのは、自分たちがまだ部屋にいた時間だったと、沢田さんは断言する。
『部屋にいたとき、時計見たから間違いない』
だからあの書き込みは、別の誰かがしたものか、あるいは本人が別の場所にいて書き込んだか、そのどちらかだと。
そう思って管理人に問い合わせると、
『ほぼ間違いなく、山下さんがいつものパソコンで接続したもの』との回答があったのだとか。
アクセス解析で分かるのだそうだ。
『これってどう思う?』
「どうって。さあ。確かに不思議ですけど」
そう答えたものの、頭の中にはいくつかの可能性が浮かんでいた。
ひとつめ。山下さんはいつも自分の家ではなく、別の場所からネットに接続していた。
ふたつめ。俺たちがオフで出会い、山下さんだと認識している人物は、ハンドルネーム『山下』を名乗る人物とは別人だった。
みっつめ。沢田さんが案内してくれたあの部屋は、山下さんの部屋ではなかった……
現実的なのは、ひとつめか。
どうしてネット環境があるのに、わざわざ自分の部屋以外で?という疑問は残るが、ありえなくはない。
ふたつめは気持ちの悪い回答だが、これまでの掲示板やオフでのやりとりなどで、同一人物であることを疑う理由はないように思われた。
みっつめは、単なる沢田さんの勘違いという線。
部屋を間違えて、そこの住民がたまたま留守だったという締まらない話だが、沢田さんは一度ならずあの部屋に来たことがある様子だったから、それもなさそうだ。
玄関のドアの横に表札があり、それが『山下』だったことを俺自身覚えていることからしても。
もし仮に山下さんと沢田さんがグルで、二人して俺をからかおうという腹ならまた話が違ってくるけれど。
そんなことを考えていると、重要な部分を聞き逃しそうになった。

「ちょっと待ってください。鍵が消えてたって、今日も行ってたんですか」
『そう。書き込み時間はなにかの間違いだとしても、あの部屋、絶対どっか隠れる場所があったはずだと思ったから』
なのに、昨日帰るとき元の場所に戻したはずの、鉢植えの下の鍵がなくなっていたのだと言う。
ドアは施錠されていて入れなかった。ノックしても応答はなし。
『もうなにがなんだか分かんない』
疲れたような声でそうこぼす沢田さんに、
「まあ、なにかあったわけでもないし、しばらくほっときましょうよ」と言ってみたが、
オカルト仲間とは言え赤の他人の俺と違って、そこそこ親密なお付き合いのあるらしい彼女にとっては、そう割り切れるものではないようだ。
『まあいいや、色々ごめんね』と電話が切られた。

静かになって、これまでの経緯を一人で思い返していると、
どうも沢田さんが、一方的に山下さんから避けられているだけのような気がしてきた。
確かに掲示板への書き込みが減り、その内容もおかしなものになってはいたが、おかしいと言えば、もともとオカルトフリークの集う奇妙な場所なのだし、中には前世がどうとかもっと無茶苦茶なことを言い出す人もいるのだから、取り立てて騒ぐほどのものでもない。
ただ沢田さんが個人的に連絡を取ろうとして、それが上手くいってないだけなのではないだろうか。
痴話げんかの類ならもう関わらないでおこう。
その時は無責任にそう思ったものだった。

 
「四パターンの顔ねえ。それ面白いな。要は、世の中の人みんなが、四種類のお面のどれかを被ってるようなものか」
「しかも疲労のピークに入ったら、体格とか服装まで区別がつかなくなるらしいです」
「てことは、国民総着ぐるみ状態か」
大学の先輩でもあるオカルト道の師匠に会ったとき、たまたまその話をしてみるとやけに嬉しそうに食いついてきた。
「病んでるね、その人」
まあ普通ではない人だけれど、あなたに言われたくはないだろうと思う。

ニヤニヤしながらひとしきり頷いた後で、師匠はぼそりと言った。
「Dは明らかに、この世のものじゃないね」
それは自分も思った。現れ方もそうだが、元々霊感の強い人なのだし。
「実際は三パターンと考えた方がいいかも知れない。大多数のA、次点のB、少数派のC。
 すべての人間が、そのどれかに見えてしまう心の病気。
 それに加えて、霊感で察知したこの世のものではない存在を、
 そのどれにも当てはまらない、第四の姿で認識してしまうんだ。
 だとするならば、その山下さんの霊感はかなり強いね」
「どうしてです?」
「他の三パターンと、質的に同じレベルで見えてしまってるからだ。
 多少見えてしまう人でも、たいていはそれはそれと分かる」
確かに俺も経験上、人間なのか霊なのか分からないものを見てしまうことはあったが、
それでもほとんどのケースでは、普通の人間と同じようには知覚していない。
霊は霊だ。
「そういう、常に霊を視覚的に人間と同レベルに認識してしまう人は、ごく稀にいるみたい。
 それの極まったような物凄い例を知ってるけど、そんな人はまずまともに世間では暮らせないね」
「誰です。その人」
「アキちゃん」
知らない名前だった。まだその時は。
「まあともかく、その山下さんに見えているDが霊的なものだとしたら、それが増えているってのが気になるな」
そうだ。最初にその書き込みがあってから、彼と誰もコミュニケーションをとれていない。
少なくともフォーラムの仲間内では。
「単純にDを霊と置き換えると、目に見える霊が増えているってことか」
「霊感が上がってきてるってことですか」
「いや、とは限らないよ。そのまんま、実際に霊が増えているのかも」
あっさりと師匠は言う。
「彼の周囲で。それとも雑踏の見ず知らずの人々の群れの中で。
 あるいはテレビに映る無数の人間たちの中で……」
この人はまた嫌なことを言って俺を怖がらせようとしている。咄嗟に心の中の眉毛に唾をつける。

「そもそも、この街に何人の人間がいるかなんて、誰も正確な数を把握していない。
 役所?役所が把握しているのは、形式上住所を置いている人の数だけだろう。
 特に大学生なんて、住民票を移さずにこの街に住んでる代表格だ。その住民票がない人間だっている。
 本当にこの街にいる人間の数を知りたかったら、時間を止めてひとりふたりと数えていくしかない」
その結果、少々人間の数が多すぎたところで。と師匠は続けた。
「本来誰も気づきはしない」
なにを言っているんだこの人は。
「まあ、それはさて置いて、その山下さんの見ているDが増えてきたってのは、
 どかかから湧いてきたというわけじゃなさそうだ」
「なぜです」
「またDがきた、っていう書き込みは、部屋を訪ねた君らのことを言ってるように受け取れるけど、
 二人とも前のオフ会の時点ではAだったはず」
そうだ。本人がそう言っていた。
「ということは、Aに見えていたものがDに見えるようになったってことだよ」
「ちょっと待ってください。Dは霊的な存在じゃないんですか」
「自分でも知らないうちに、そうなってるんじゃない?」
指を向けられ、思わず目を反らす。でもそんなわけはない。
「おっ。否定するね。自分が死んでることを認めたがらない。典型的な霊体の症状です」
からかわれている。さすがにむかついてきた。
「まあそう怒るな。
 Dになった君が依然として霊的存在ではないとすると、初めからDは人間だったってことになるんじゃないか」
Dは人間。
それは俺も考えた。玄関のドアから覗く顔は、植木鉢の下の鍵を使えば人間にも可能だ。
帰宅した山下さんが、中から鍵を掛けたのを見計らって植木鉢の下から鍵を出し、ドアを開ける。
気づいた山下さんが近づいてくる前にドアを閉じて、外から差したままの鍵を捻って施錠し、逃げる。
一階の端部屋だったから、角を曲がれば上手く逃げ隠れできるだろう。
誰がなぜそんなことを、という疑問は残るが。
ただ、風呂場に立つDは分からない。
その風呂場はこの目で見たが、小さな窓はあったものの、人間が出入りできるようなものではなかった。
気づかれないように家宅侵入して、同じく気づかれないように出て行くなんてことができるだろうか。

「難しく考える必要はないよ。ヒトは生身の人間ではなく、まして霊でもない人間を見ることがあるじゃないか」
「幻覚だと」
でも師匠も、山下さんの霊感が強いのを認めていたじゃないか。
「だとするならば、ってつけてたよ。Dを霊と仮定した場合の話だ。僕の結論は最初に言ってる」
師匠はまたニヤニヤ笑いながら言った。
「病んでるね、その人」
だったらさっきまでの話はなんなんだ。本当に回りくどいなこいつは。
「最初は幻覚が見えたんだよ。それでも生身の人間と幻覚の区別がついてたんだ。
 それが、だんだん本物の人間まで幻覚のように思えてきたって話。末期的だね」
あからさまに他人事だと言わんばかりの口調で、幻聴の場合だとどうだとかいう話をつらつらと続けた。
「あんまり関わらない方がいいと思うよ」
最後にそう忠告してくれたが、それは結局俺の結論と同じだった。

それからしばらくは、山下さんのこともDのことも、あまり考えることなく過ごした。
新しく始めたバイトやサークル活動で忙しく、オカルトフォーラム自体にもほとんど顔を出さなかった。
沢田さんからの電話もなく、俺の中で終わったことになりかけていた。

ところがある夜、寝る前に何気なくフォーラムの掲示板を覗いてみると、一番下に『殺し方ってなに?』という書き込みがあって、思わずドキリとする。
嫌な予感がした。
その少し前の書き込みに対するレスのようだった。投稿者は俺の知らないハンドルネーム。新顔だろうか。
緊張しながら上にスクロールしてみる。
すると今から一時間ほど前に、山下さんの名前で書き込みがあった。
『あいつらの殺し方がわかった』
その文字を見た瞬間、心臓の鼓動が早くなった。
あいつらってなんだ?殺し方って?

 
さらに遡る。
『いや、フリじゃない。ツモリなんだ』
間に業者の宣伝がいくつか入り込んでいる。俺は画面から目を離せずに、ゆっくりとマウスを動かしていく。
『あいつらは人のフリをしている。ぼくだけがそれを見抜くことができる』
危険だ。
俺は立ち上がった。
なにをしようと思ったわけでもない。ただ無意識に身体が動いたのだ。
山下さんの書き込みはその三つだけ。五分ほどの間に書き込まれ、そしてそれから現れていない。
何人かが冗談めかしてレスをしているが、常連の名前はなかった。
みんなこの書き込みの意味を理解していない。
情緒不安定なんてものじゃない、山下さんは本当に危険な精神状態にある可能性があるのだ。
Dが増えている。彼の平穏な生活を脅かすDが。
疲れた時、人の顔が四パターンに見えたように、少しずつ狂っていった彼の精神が、増えていくDに追い詰められていく。
そして彼の中で、ついに暗く恐ろしい決断が下された。
その増えたDとは。あいつらとは。俺であり沢田さんであり、大多数のただの人間のはずなのに。
俺は家を出ると自転車に飛び乗り、山下さんの部屋に向かった。
ドロドロと纏わりつくような、嫌な予感がして仕方なかった。

まずコンビニに到着し、前回のコースをそのまま辿る。やがて見覚えのあるアパートが見えてきた。
ドアに掻きつくように駆け寄ると激しくノックする。名前を呼ぶ。
深夜だが周囲の迷惑など気にしていられない。
「山下さん」
動きを止めて静かにしてみたが、中からはなにも聞こえない。
裏に回ってベランダ側から覗き込もうとしても、カーテンに覆われていて中は伺えない。
しかし、明かりは一切漏れておらず、相変わらず人の気配は無かった。
次に俺は周辺道路を歩き回った。山下さんらしき人影がないか目を凝らしたが見つからない。
疲れ果てて、なんの収穫もないまま帰らざるを得なかった。
 
 
三ヶ月が経った。
あれからついに、山下さんの姿を見ることはなかった。失踪したのだ。
仕事先にも告げずにいなくなったらしいということを、沢田さんから聞かされた。
しばらくは新聞やテレビで地元の傷害事件のニュースがあるたびに、
山下さんが関わってはいないかと恐れたものだったが、杞憂に終わっている。
アパートの部屋は、保証人になっていた家族が片付けたそうだ。
今はその部屋には、そんな経緯も知らない新しい住人が入っている。
 
春になり、有形無形の様々な別れがやってきた。
看護婦をしていた沢田さんが、実家のある県外の別の病院へ移ることになり、
オカルトフォーラムのメンバーで、お別れ会と称したオフ会を開いた。
人当たりも良く、オカルティックな話題を多く提供してくれた功労者ならではの扱いだった。
沢田さんは散々回りからお酒を注がれて、かなり酔いが回ったらしく、
口数が減ってきたかと思うと、外の空気が吸いたいと言い出したので、俺が付き添って居酒屋の外に出た。
主役がいなくても盛り上がっている宴席を尻目に、
沢田さんは歩道に植樹されたケヤキに、もたれかかるようにして立っている。
「吐きますか」と訊いて近づこうとした俺に彼女は頭を振って、かわりに「電話があった」と言った。
「誰からです」
「山下さん」
一瞬誰のことか分からなかった。ヤマシタさん。ヤマシタさん?
「元気か、なんて言うから、どこにいるのって怒鳴ってやったら、部屋にいるよって」
山下さんって、あの山下さんなのか。
「いるわけないじゃない。あの部屋、もう他の人が住んでるんだし。
 そう言ってやったら、そんなはずはないって笑うの。ぼくはずっとここにいるって」
半ば覚悟していた狂気に寒気がするのと同時に、妙な符合が頭に引っ掛かる。
最初に沢田さんと部屋を訪ねた時、俺たちがそこにいたと思われる時間帯に書き込みがあったこと。
その俺たちを、どこかで見ていたかのようなその内容。そして玄関の靴。
まるで目に見えない彼が、ひっそりとそこにいたかのような。
「なにしてたのって訊いたら、ずっと探して回ってたって」
なにを?決まっている。Dだ。

「あいつらは人間のつもりなんだって。いつの間にかその本人と入れ替わってるんだって。
 自分でも気づいていないから、普通の人間みたいに生活してるけど、ぼくにだけは分かるんだって。
 Dの顔に見えるから」
探して、どうしたんだ?
沢田さんは顔をケヤキの幹の方に向けたまま、ポツリポツリと語る。
「フリじゃなくて、ツモリだから、教えてあげればいいだけなんだって。おまえは人間じゃないよって。
 そしたら……」
忌まわしい言葉を飲み込むように押し黙る。
「怖かった。彼がなにを言ってるのか分からない。電話越しに、声が近くなったり遠くなったりしてた。
 狂ってると思った。でも狂ってるのは私かも知れない。そんな電話、本当は掛かってきてなかったのかも知れない」
小さな声が微かに震えている。
自分の周囲の人間がいつの間にか良く似た全く別の存在に入れ替わられている、という妄想にとりつかれる、というのは聞いたことがあるが、山下さんは少し違うようだ。
入れ替わっているのは、彼自身なのではないか?
いや、入れ替わりと言っていいのか分からない。
客観的に見て、彼のいる空間と我々のいる空間とが交わっていないという、この不可思議な現象に、こちらの頭もこんがらがってくる。
山下さんは確かに狂いかけていた。
けれどその狂気が、内側にだけでなく外側、つまり現実にまでじわじわと浸潤していったというのか。
「もう街に、人がほとんどいなくなったって。見つけ次第、自分が殺してあげたから。
 誰もいない街を毎日歩いて歩いて、それでも不安が消えない、って泣きそうな声で言うのよ。
 それで……会いたいって」
沢田さんは絶句した。
俺は「ちょっと待って下さい」と小さく叫んで、手を前に突き出す。
割れた鏡が頭に浮かんだ。
彼のいない部屋に残された唯一の生きた痕跡。いや、あの時も彼はいたのかも知れない。
部屋に侵入してきた二人のDに怯えながら。
鏡。鏡。もう一つどこかでその言葉を聞いた。
そうだ。彼が初めてその四つの顔の話をした夜。
俺はいつの間にか眠ってしまっていて、起きた時には彼はもういなかった。疲れたから帰ると言い残して。

その時、鏡占いに行こうという話になっていたはずだ。鏡。鏡。
疲れたから帰る?
疲れた時には四つの顔が見える。鏡の向こうには何が見える?
俺はA、沢田さんはA、ColoさんもA、みかっちさんはC……彼自身は?
誰も訊かなかった。どうして訊かなかったんだろう。
思い返すと、どうも彼がその話題にならないよう、上手くかわしていたように思う。
彼は鏡を見たくなかった。だからあの夜、先に帰った。そして自分の部屋の鏡を割った。
なぜ見たくなかった?
俺は想像する。
鏡の前に立っている俺自身を。
そして、その鏡に映っている顔が、一瞬どこかで見たような、どこでも見ていないような、
知っている誰かのような、知らない誰かのような、無表情の人間の顔に見えた気がした。
ハッとして我に返る。
すべてのDを殺して回っているという、彼が本当に恐れているのは……
自分に真実を告げる他者の存在。
「会いたいって言うのに、私、来ないでって」
沢田さんが口元を押さえる。
それで実家へ帰るのか。
急な引越しの理由が分かった。
あれ?
その時、急にデジャヴを感じた。こうなることを知っていたような気がするのだ。なんだろう。気持ちが悪い。
「『分かった』って、そう言って電話が切れた。
 もう繋がらない。掛けても、現在使われていない番号だって……」
沢田さんは泣いているようだった。
しばらくそうして、二人とも黙ったまま夜風に吹かれていたが、
やがて落ち着いた頃合を見て、「席に戻ろう」と言った。
 

居酒屋の自動ドアの前に立ち、それが開く瞬間、
ガラス製の不完全な鏡に映った俺と沢田さんの後ろ、誰もいないはずの空間に、
無表情の人間がひっそりと立っているような気がした。

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怖い話まとめブログ/師匠シリーズ「四つの顔」より転載させていただきました。

 
 

『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて

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